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こちらのイベントに参加してきたので、会の様子と感想を書いていこうと思います。
把持は把持自身を把持している
P166の「把持は把持自身を把持している」という表現に関して、これは外的把持のみを把握しているという意味なのか?そうではないのか?という話をしていきました。
これを考えるにはP164の図で考えると分かりやすいのではないか?ということで、この図で言う横の志向性がドレミの歌でレを聞いているときにドの音がその前にあったという外的把持であり、縦の志向性がドレミの歌でドを聞いていたなという自分を想起するのが内的把持になっているのではないか?という話が出てきて、結論としては、把持は内的把持も外的把持もどちらも把持していると言えそうだということになりました。
空間は直接経験から構成されるもの
人は、歩く速度によって同じ道でも全く違う経験をする(果てしなく長い道だ、普通に歩くことができる道だ...)のは、それぞれが持っている直接経験が違うことが要因であるという話が出ていました。
客観的空間
ここで表現されている空間に関しては、既に構成されている空間であるが故、客観的空間として本書では定義されており、対象化して比較検討ができるものになっているという話がありました。
また、「客観的」を誰もが見ても同じように見えるという意味で「客観的」としてしまうと混乱が生じそうだという意見も出ていました。
歩いている地面に地面が動いている映像を見せると転んでしまう
歩いている地面に地面が動いている映像を見せると転んでしまう例は、まさにキネステーゼ意識のK成分とb成分の好例であり、K成分に対応しようとすると誤ったb成分に適応しようとしてしまい、転ぶという形で調整をすることになると説明ができそうだという話が挙がっていました。
困難な主題化とゲシュタルト
より早く走ろうと思うとフォームが崩れてしまったりするある種のスランプに関しては、フォームの一部に着目をしてしまったことによって、延長していた身体が崩れてしまい、フォームが戻せなくなってしまうという風に説明をできそうだという話がありました。
これはマイケル・ポランニーのゲシュタルトの概念とも同じだという話があり、全体は部分の総和にならず、部分を取り出して全体に戻することが難しいという意見が挙がっていました。
全体を通した感想
今日は本の内容を実生活で起きている出来事と紐づけて理解しようとした結果理解が深まることがあった点がよかったです。
いつも通りじっくりと理解を深めることができるありがたい会でした。