天の月

ソフトウェア開発をしていく上での悩み, 考えたこと, 学びを書いてきます(たまに関係ない雑記も)

(オンライン読書会) これが現象学だに参加してきた

educational-psychology.connpass.com

こちらのイベントに参加してきたので、会で話したことと感想を書いていこうと思います。

時間位置と空間位置

2つの基体に収斂されるパターンとして、時間位置と空間位置が本書では紹介されていましたが、時間位置というのが空間位置と比較してよくわからず、話をしていきました。

時間位置というと、1秒違うだけでも異なるように思えますが、ここで紹介されているのはあくまでも2つの基体に収斂されるパターンなので、時間位置が異なるからといって「必ず」同一基体に収斂されるわけではないという解釈で良さそうだという話が出ていました。(例えば犬が100年単位で異なる時間位置にいた場合、同じ空間位置にいたとしてもそれは異なる基体として収斂される可能性がある)

客観的時間

わざわざ「客観的」と言葉をあてている部分は、個人の主観から客観への変遷を示しているとも捉えられるよね、という議論をしていきました。

基体しかないノエマはあり得るのか?

153ページで、数や意味はノエマから抽出された抽象的成分であるという話があり、これは納得できるものの数や意味がノエマであるというのは納得できないという話が出ていました。

P133の本書におけるノエマを見る限り*1、現出をまったくまとわない裸の現出者の存在は認められていないので、数や意味をノエマということは難しいのではないか?という話があったり、逆にノエマそのものとして捉えることもできるのではないか?という話が出ていました。

「原」印象

我々が直観している現在だからこそ「原」をつけているのかもしれないと勘ぐりたくなるような言葉選びだという話がありました。

事実と異なる直観

その人が経験している直観が事実と異なっている上に他人も直観が事実と異なっている場合、エコーチェンバーによって事実と異なる直観が強化される可能性もあるよね、という話をしていきました。

想起と構築の違い

人は完全に一言一句正確にその場を記憶することはできないので、その人が想起だと思っていても実際やっていることは構築だという場合があるのではないか?という話がありました。

ただ、その人が想起しているという時点でそれが仮に事実と異なるものだとしても、それはその人にとっては直観であるため、構築ではなく想起といっても良いのではないか?という結論になりました。

逆に、その人が直観できていない場合(例えばさっき自分は何をしていたのか?と考える場合)、それは近い過去であっても、想起になるのではないか?という話がありました。

客観的時間か中立的時間かは人によって異なる?

上記の議論を基に考えると、客観的時間に属する事象だとその人は思っていても、別の人から見れば中立的時間に属するものだと思っている可能性はあるため、その物事が客観的時間か中立的時間かは誰にとっても明らかなものではない可能性があるという話をしていきました。(あくまでもその人の解釈の違い)

このあたりは、フッサールは明証性を使って説明しているのではないか?という意見も出ていました。

全体を通した感想

メンバーも固定化されてきて、アイスブレイクや前置きをほぼせずに、本の内容にがつっとダイブしていけて、非常に楽しかったです。

明証性の問題と客観的時間/中立的時間の概念は結構ごっちゃになっていたので、そこが紐解けて良かったのと、自分が直観したことに改めて立ち返って考える重要さを実感できたのが、今日の大きな取れ高でした。

*1:ノエマの解釈には東海岸解釈と西海岸解釈それぞれが存在する