天の月

ソフトウェア開発をしていく上での悩み, 考えたこと, 学びを書いてきます(たまに関係ない雑記も)

(オンライン読書会) これが現象学だに参加してきた

educational-psychology.connpass.com

こちらのイベントに参加してきたので、会の様子と感想を書いていこうと思います。

アヴェナリウスやディルタイからフッサールは何を取り入れたか?

本の中で、さらりとアヴェナリウスやディルタイの考え方を取り入れたという話が出ているのですが、これはどういう点を取り入れたのか?という話を聴いていきました。

ハイデガーの例も見ないといけないが、細かい還元や分解をしなくても、生活世界の範囲内の分析から道具のネットワークに関して議論するようなアプローチをアヴェナリウスやディルタイから取り入れたのではないか?という意見が出ていました。

ルフレッド・シュッツ

ルフレッド・シュッツは仕事(銀行員)のかたわら研究をしていたという話をはじめ、シュッツに関する話で少し盛り上がっていました。

ja.wikipedia.org

souzouhou.com

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理性

アプリオリと理性を紐付けている箇所があり、理性という語彙とアプリオリがちょっとイメージが合わないよね、という話が出ていました。

これは、哲学にヨーロッパ系の伝統的哲学では理性の能力に対して強い信頼を置いており、「人が考える能力」といった人によって個体差があるものではなく、人間に元々備わっている本質的能力だという考え方をしているため、理性を人によって異なるものだと考えると今ひとつ本の内容がぴんとこない可能性が高いというお話がありました。

十全的明証性/不十全的明証性

明証性に関して掘り下げていきました。

まず、十全的明証性/不十全的明証性の区別としては、0-100みたいな感じでグラデーションがあって100以外は不十全的明証性みたいなイメージで良いということで、グラーションがあってほぼ確実に言語と知覚が対応していたとしても、これは不十全的明証性として考えられるだろうということです。

また、フッサールの明証性は、例えば「ノートが青い」という発言に対して、これは「青ではなく水色だ」といった意見を基に更新する余地もあり、批判に対して開かれている概念だという考え方も紹介されました。(ダン・ザハヴィ『フッサール現象学』より)

フッサールにとって述語の厳密な意味での明証は、一つの表意的存在定立的志向(典型的なのは一つの主張)が対応する知覚によって十全的に充実される場合の、だからまさに対象の自己所与を与える場合の、充実の完全な綜合という理念を明示する。だから対象は、もはや単に志向されているのではなく、直観的にも(まさに志向されるとおりに)与えられているときに、明証的に与えられるのである。(...)フッサールの明証概念は、主観の私秘的な意見を絶対化することあるいは無力化することを試みることではまったくない。(...)むしろ、フッサールの明証概念は相互主観的妥当についての主張を必然的に伴うのであり、まさにそういうわけで、批判に対して開かれている。

明証性に限らず、言葉一つ一つを掘り下げることでより現象学に対する理解が深まりそうだという話も出ていました。

主題的と反省

体験を突破したものこそが主題的なものであり、認識が思考対象になっているという話が出ていました。(壁を見ていると思っていたけれど家を見ていると認識している場合家が主題的)

家の例であれば、「今私は家を見ていたと思っていたけれど実際に見ていたのは壁であった」と捉え直すことが反省だよね、という話がありました。

直接経験/直観

直接経験(志向的体験)はサイコロを見るときの経験(四角いものがあって図形があって...)であり、直接経験をもとにしてサイコロというものを抽出するのが直観だという話が出ていました。

原事実

原事実の具体例として、本に挙げられている自我や「他者がいる」以外にも時間や物理学における光の存在などが挙げられるのではないかという話がありました。

全体を通した感想

進捗は10ページでしたが、一つ一つの用語に対して現象学的に深く考える機会になる学びが深い会でした。

今回初参加の方も多くいらっしゃったお陰で、自分たちが理解していたつもりの部分が改めて考えられ、現象学のネチネチさ(褒め言葉)をめちゃくちゃ感じられました。